≪島原・天草一揆蜂起≫

 島原・天草一揆のあらまし1  まえがき
 蜂起の起因
 島原・天草一揆のあらまし2
 松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)
  ・過酷なキリシタン迫害について(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし3   ・厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし4  寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)
 一揆の性質
 この事件の呼称について  「一揆」と「乱」について
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厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)


江戸時代は、全国的にも幕藩体制下の参勤交代や公儀譜代がどの領土の大名にも重くのしかかり経済を圧迫していました。財政難から農民らへの重税は直接生活を圧迫し、地域によっては逃散が相次ぎ、幕府も逃散禁止令を出し、五人組政策をとりますがあまり効果を得なかったといえるでしょう。


島原の地も、領主松倉重政が入部し、一国一城の令により有馬日野江城、原城をはじめ30ほどの出城やとりでを全て壊し、7年もの歳月をかけて4万石ほどのこの地に10万石ほどもある島原城を普請するのです。当然、これらは農民に重い税と譜代役が課せられました。それでも農民達は、厳しいキリシタン弾圧下の苦しみに喘ぎながらも力を尽くしたのです。しかし、厳しい経済困窮はむしろ、子の勝家の時代だったといえるでしょう。


1630年には究めて厳しい検地が行われたといいます。これについても4万石を10万石あるいは12万石ほどにもかさあげがなされたといわれ、決して肥沃な土地でないこれらの地に課せられた重税は、むしろこの領主の経済困窮を逆に物語っているといます。江戸城築城においても、分不相応な負担を自ら申し出、寛永11年からの大飢饉下においても重税が課せられ続けたのです。農民らは飢餓と重税に苦しめられ、餓死者が続出する有様だったといいます。が、これらの数字を指し示した史料が現存しておらず、証明することは困難だといわれていますが、唯一諸外国に残る史料からそれを伺い知る事が出来るのです。


これについては、当時の平戸オランダ商館長ニコラス=クーケバッケルがバタビアのインド総督に宛てた報告によれば、この地に多く残った旧領主有馬氏の旧臣が帰農武士を余儀なくされたのですが、松倉氏はこれが気に入らず負担に耐えられないほどの年貢を課したとも言います。払えないものは、領主の命により“葉が広くて広い草でつくった粗末な外衣”を着せ、これを首と胴に結びつけ両手を縄で背後に固く縛られた上、これに火を放った “ミノ踊り”がなされたと記しています。またこれに飽き足らず、 婦女らを裸にし両脚をくくり逆さつりになどしたともあります。


また、当時大村藩の囚われ人となっていたポルトガル人ドアルテ=コレアが、獄中で見聞きしたことをマカオの神父アントニオ=カルディム師に宛てた報告によれば、あらゆる名目で租税を課せられ、煙草の葉は一株についてその半分を、しかも極上のものを選んで取り上げられ、ナス一本にも実を何個と割り当てられたといい、年貢が納められなければひどい呵責を受け、妻・娘が人質に取られた。妊娠している女も許さず凍った池に投げ込むなど、多くの女を虐殺したと記しています。鍋島藩に残る史料にも松倉勝家時代の苛政を、「在家二囲炉銭、窓銭、棚銭、戸口銭、死人二穴銭、生子二頭銭ヲ掛け」と記し、これが一揆の原因だとしているのです。


このようなことが果たして税を取り立てる方法なのだろうかと思わざるを得ません。キリシタン迫害時の拷問施行によって刑執行者は、どこか人としての感性すら麻痺してしまったのでしょうか。この地の民衆はこれを“きりしたんいじめ”といいながらも、生きている人間として最後の力を奮い立たせ、声を上げたのです。蜂起し、その戦いが勝利しようが敗北しようが、あとは神様の意思に従うのみであるという様相を呈していたのです。


 ニコラス=クーケバッケルの報告書
 ドアルテ・コレアの書
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