慶長5年(1600年)、キリシタン大名だった小西行長滅亡の後、この地は一旦熊本城主加藤清正に預けられました。ところが清正は、熱心な日蓮宗でこのキリシタンの地を嫌い、豊後鶴崎との替地を幕府から許可されたといいます。この後に関が原の合戦で功績を挙げた合理主義者の唐津藩主寺沢広高がこの飛地天草の領主を兼ねることになりました。そして植民地的ともいえる支配を行い、唐津に近い富岡に城代を置いてこの地を統治させたのです。慶長8年の検地では石高が4万2千石余りとされ、水田の少ないこの土地にとってみると非常に厳しい数字だったようです。税はこれでは足らず、塩浜、塩釜、漁業の入会・海面なども知行高にくわえられていたとあります。元和2年(1616年)にも厳しい検地が行われ、小西時代から比べれば6割近くもかさ上げされた重税が農民らに課せられたといいます。
キリシタン弾圧にあたっても島原と同じく、特に富岡城家老の多賀主水らによる嗜虐性を疑うばかりの残酷な拷問が日常的に行われました。広高の子、堅高もまた父と同じ方法でこの地に苛斂誅求を行ったのです。
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