≪島原・天草一揆蜂起≫

 島原・天草一揆のあらまし1  まえがき
 蜂起の起因
 島原・天草一揆のあらまし2
 松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)
  ・過酷なキリシタン迫害について(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし3   ・厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし4  寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)
 一揆の性質
 この事件の呼称について  「一揆」と「乱」について
■ 寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)

慶長5年(1600年)、キリシタン大名だった小西行長滅亡の後、この地は一旦熊本城主加藤清正に預けられました。ところが清正は、熱心な日蓮宗でこのキリシタンの地を嫌い、豊後鶴崎との替地を幕府から許可されたといいます。この後に関が原の合戦で功績を挙げた合理主義者の唐津藩主寺沢広高がこの飛地天草の領主を兼ねることになりました。そして植民地的ともいえる支配を行い、唐津に近い富岡に城代を置いてこの地を統治させたのです。慶長8年の検地では石高が4万2千石余りとされ、水田の少ないこの土地にとってみると非常に厳しい数字だったようです。税はこれでは足らず、塩浜、塩釜、漁業の入会・海面なども知行高にくわえられていたとあります。元和2年(1616年)にも厳しい検地が行われ、小西時代から比べれば6割近くもかさ上げされた重税が農民らに課せられたといいます。
キリシタン弾圧にあたっても島原と同じく、特に富岡城家老の多賀主水らによる嗜虐性を疑うばかりの残酷な拷問が日常的に行われました。広高の子、堅高もまた父と同じ方法でこの地に苛斂誅求を行ったのです。


■ 一揆の性質(一揆について)


この一揆の性質を考える場合、まず一揆蜂起の口火を切った事件が、キリシタン宗門の御影を拝んでいたことを咎められた事による代官打殺事件というのがありますが、松倉藩はむしろ自らの苛斂誅求が一揆の原因であることを隠すために法度のキリシタンにその責任を押し付けた形でこれを誇大宣伝し、キリシタン蜂起を演出したことも考えられ、一概にキリシタン一揆であるという説には疑問が残るところでもあります。


また単に領主による異常な経済収縛のみが原因であるとも言い切れないところで、それには天草・島原が法度であるキリシタン繁栄の地という特殊性を無視できず、経済収縛についてもキリシタン弾圧が複雑に絡み合っているからだともいえるでしょう。先人の研究者によっても、キリシタン一揆説、領主に対する農民蜂起説、蜂起理由不明説などが挙げられていますが、原城篭城中に一揆勢と幕府軍の間で交わされた矢文には、一揆勢が一言恨み申し上げると松倉城主へ苛斂誅求を訴えたものがあり、干ばつで借米を願ったけれどもどうにもならずとあります。起因がそうだとすると、あとはこの地の農民組織と密接に結びついた宗門組織講が使われ、宗門による結束力を持って弱者である彼らが立ち上がったというのが定説にもなっています。


ただ、一つの問題は、キリシタンへわざわざ立ち返って武装蜂起するということに、矛盾はないのかということです。キリシタンが正規軍に反旗を翻すという行動自体、キリシタンにあってはならないことだといえるからです。そういう意味で、いまだキリスト教界では彼らを異端視する向きもあります。しかしながら、厳しい重税による重い刑罰を与えられ、尚この飢饉下でつぎつぎに餓死者を出し、後は死ぬばかりという状況に追い込まれた人間の集団心理を考えると、想像を絶するものがあるのも事実で、そんな時に画策者が現れ四郎のような存在が望まれたのです。天の使によって、法度であったキリシタンへ立ち返りを赦された民衆は、最後の力を奮い立たせ、立ち上がる勇気を得たといえるでしょう。もはや、苛斂誅求をこなう領主たちこそが、彼らにとって悪魔であり、決して地上の王である将軍に反旗を翻したという心理は当初働かなかったと言えはしないでしょうか。そのことは矢文にも、幕府への反逆と捕らえられていることに戸惑っている様子があり、むしろこのように幕府正規軍の大軍を差し向けられていることに驚きを隠せない様子も伺えるのです。もちろん彼らはキリシタンということで、そのとこについての咎めは甘んじて受けるといっています。ただ彼らは兵士でなく、ただの農民です。何とか力を奮い立たせて立ち上がる力を得るためにキリシタン立ち返りをしたとも言えるでしょう。


彼らがほしかったのは唯一つ、領主の首ひとつだったかもしれません。ところが篭城にうちに信仰心で団結した彼らは、祈りの心中へと移り変わっていったと言えはしないでしょうか。


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