≪島原・天草一揆蜂起≫

 島原・天草一揆のあらまし1  まえがき
 蜂起の起因
 島原・天草一揆のあらまし2
 松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)
  ・過酷なキリシタン迫害について(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし3   ・厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし4  寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)
 一揆の性質
 この事件の呼称について  「一揆」と「乱」について (追記)
  お詫び:年号を打ち間違っておりました箇所を訂正いたしました。
■ まえがき

島原・天草一揆(島原の乱)は、1637年島原・天草地方の百姓達が領主の苛斂誅求のために蜂起し、島原城、富岡城を攻めながらやがて、島原の原城に若干17歳の天草四郎を総大将として総勢3万7千の老若男女含む惣百姓・浪人ら一揆軍が篭城して幕府軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げ、翌年2月幕府軍12万もの正規軍による総攻撃によって一揆軍全滅に至った一揆といわれています。その数およそ3万7千といわれました。

徳川の時代、幕府の封建的な支配のもと、秀吉の伴天連追放令以降さらに厳しいキリシタン禁制がひかれ、キリシタン大名らは退きその地に残った家来衆らは帰農をよぎなくされました。これらキリシタンであった帰農武士、浪人、それらとこの地の宗門組織と密接に結びついた惣百姓組織長らが結びつき、やがて一揆が蜂起されたといいます。全国でもまれに見るキリシタン全盛を誇った地域という土地柄にあって島原・天草の地は、禁令下に入部してきた領主による容赦ないキリシタン迫害が烈火を極め、また外様大名の地にあって徳川への忠誠を示すあまりそれらの地の農民らに過酷な税を課すために行われたキリシタン迫害のような責め苦、さらに大飢饉が拍車をかけ、年貢を納められないものへの拷問は過酷を極め、これらの地は棄教のための残虐な迫害と、封建社会における厳しい税負担によって百姓達は追い詰められていったのです。異常気象による大飢饉で餓死者が続出してもなお、領主らはなんら策を講じず、講じるどころか更に激しい経済収縛がなされたのです。このような異常気象や地震などが、キリスト教でいう最後の審判が到来するこの世の終わりではないかという風説が流れ、人々は農作物を作ることもおぼつかなくなり、またそれほど人々は絶望感に打ちひしがれていたことが想像されます。



■ 蜂起の起因

キリシタンの地、天草・島原領地といえども、もすでに一揆発生当時は表面的にはキリシタンの棄教が終わり、キリシタン迫害の嵐は治まりつつあったとされています。その中にあって多数の飢餓による死者をだす大飢饉下においてなお、厳しい税の取立てがあり、もともとキリシタンであったこの地の人々は、死んで地獄・生きて地獄という状況にありました。

とはいうものの精神面において棄教後もキリシタンの教えが根強く残るこの地の民衆は、キリシタンの教義において、例え苦しい状況にあっても自害すらできず、また棄教を余儀なくされた人々はせめで死後は安泰に暮らしたいと願ってみても、天国への道すら閉ざされてしまったのです。領主やこれら執行する家臣らの、ともすると嗜虐性をおびたキリシタン弾圧により信仰を守り通したものは殉教し、生きて残るものの多くは異端者となった罪を自ら背負い、例え飢餓で息絶えようと、死んでなお地獄・・・そう考えられていたのです。

彼ら百姓の多くは、もはやどうにもならない状況に追い込まれていたといえるでしょう。そのために借米訴訟がまず6月頃に起されました。ところが唯一残っていた手段すら門前払いされ、税を払うどころか自分たちの食する米すらない彼らはどうやって生きろというのでしょう。彼らは、あるものは死を待つばかりというものもいたでしょうし、何としても生きることをそれでも望んだものもいたでしょう。

運命を甘んじて受け死を待つのみの者は、どうせ死ぬのなら辛い現世を終えた後にはせめて天国へ召されたいと願ったのでしょう。また生きることを望んだ者は、何としてでも生き延びて、時代の流れが変わり主君あるいは領主が変わって新しい世が来ることに願いを繋いでいたでしょう。それらは、かつての禁制下にもかかわらずキリシタン全盛を誇った有馬時代、小西時代の記憶が彼らを奮い立たせた一因ともいえはしないえでしょうか。

この地に残るキリシタンの組織講と深く結びついた農民達は、死を決して蜂起したのです。彼らは、キリシタン迫害を理由に信仰を守るために立ち上がったというより、領主らの苛斂誅求を世に示すために騒動を起し、大きな騒動が注目を集めることによって事の大きさを示し、江戸幕府に領主らの苛斂誅求を示して何らかの策を講じてもらうこともあるいは考えたかもしれません。領主国替えといったことを考えた者もいたかもしれません。現に、この飢饉下において、近隣の細川藩では一部減免などの処置が講じられていたのです。

また同時に、この地はもともとキリシタンの地であり、かつて平和であった頃の天草島原は、キリシタンが栄え秩序を守りともに仲良く暮らしてきた記憶から、この乱世を憂いせめてキリシタン宗門を認めてほしいと願ったこともまた確かなところでしょう。宗門は、幕府が示すように諸外国と結びついて国家を揺るがす叛徒などではなく、むしろ信仰さえ認めてもらえれば忠実に奉公することを訴えたかったかもしれません。キリシタンは元来、神の代理である地上の主君に従順に仕えるために奉公することが、ゼウスへの救済信仰の証しだったのです。諸説には、もちろん口火となった代官殴打死事件の内容から、キリシタン法度に対する反旗を翻したとも考えられますが、一揆衆が経済収縛に至っても“きりしたんいじめ”をされ、もはや堪忍袋の緒が切れたと言ったのも無理のないことだと思うのです。


とはいえこの状況下にあってキリシタンであろうとなかろうと、この徳川封建制度による苛烈を極めた経済的縛収奪はこの地に限ったことではありませんし、キリシタンが多くいた土地柄であったことでさらに烈火を極めたことは事実であり、まさに百姓の頭的存在となっていた帰農武士やそのほか反徳川浪人衆と、残っていたキリシタン組織講と結びつきながら百姓達は、最後の力を振り絞るために天の使(四郎)に立ち返り(キリシタンに戻ること)を赦され、その組織の結束力と信仰による一体感によって一揆蜂起へと至ったのです。

例えどんな状況であろうとも、生きた人間をここまで追い込んだ事実、追い込まれた人間が本能的に生きることために最後の力を振り絞ることになんの疑念があるでしょう。人間が本来、あるべき姿で生きるために声を上げたといえはしないでしょうか。反幕藩勢力としてのキリシタンを祭上げる効果を世に示したことは、自らの苛政を隠そうとした領主松倉であり、威信を守るための徳川幕府であったことはやはり把握しておかなければなりません。一揆の願いも空しく、幕府は彼らを反幕府勢力の叛徒と烙印を押し、虫も赦さず全滅に追い込み、一揆の記憶すら史上から抹消しようとしたのです。


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