≪島原・天草一揆蜂起≫

 島原・天草一揆のあらまし1  まえがき
 蜂起の起因
 島原・天草一揆のあらまし2
 松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)
  ・過酷なキリシタン迫害について(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし3   ・厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)
 島原・天草一揆のあらまし4  寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)
 一揆の性質
 この事件の呼称について  「一揆」と「乱」について
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松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)


元和2年(1616年)大和五条から松倉豊後守重政が入部してきました。重政は幕府の一国一城の令によりキリシタンの地として象徴的存在でもあった有馬日野江城・原城をはじめ30ほどの出城や砦を全て壊し、7年の歳月をかけて連郭式平城の島原城(森岳城)を築きました。


【島原城】撮影:ともともさん
もともと大和での所領高が1万石であったのに対し、転封してきたこの地は4万石ほどあり、その出世のほどを知らしめたかったのか重政は、さらに分不相応は10万石にも匹敵するほどの一大城の郭の建設に着手したのです。


築城に際し、当然のことながら人夫としての過酷な労役とその間にも重い年貢を課し島原城完成のち、寛永7年(1630年)には過酷な検地が追い討ちをかけました。それには表高4万石に対し10万石とも12万石とも言われる無理なかさ上げがなされたといいます。江戸城築城のおりにもやはり、朱印高10万石もの役の負担を自ら幕府に申し出るなど、その経済状態は困窮を極めていたことがわかります。さらに寛永11年から13年にかけて大飢饉が襲い、領民らはまさに重税と飢餓に苦しめられ、餓死者が続出するありさまだったといいます。このような自然災害が加わり、幕府の発した厳しいキリシタン禁制による迫害と、キリシタン弾圧の様相を呈した経済収奪の為に、松倉親子2代は史上に残るほどの猟奇的な刑罰や拷問を公然と施行したのです。この一揆の原因こそが、この松倉の苛斂誅求だったのです。


これは一揆軍が原城に篭城した際に、一揆軍(天草四郎)から幕府上使松平伊豆守に宛てたといわれている矢文で、その苛性への恨みが述べられています。


「今度、楯て篭り候意趣は、天下への恨み、かたがたへの恨み、別条御座無く候、近年、長門守殿内、検の地詰め存外のうえ、あまつさえ高免仰せ付けられ、四、五ヵ年の間、牛馬、妻子文状せしめ、他を恨み、身を恨み、涙を落とし、袖を湿らせ、納所つかまるといえども、早や勘定の功果て、・・・、死去身の成り果てにより、他国仕るに及ばず、せめて長門守殿への一通の恨み申しおわんぬ、・・・」


また一揆軍が島原城攻めの際、城内の家臣らは「この分にて片時も差し置かるべきに非ず、急ぎ踏みつぶすべし、これらの儀、よくよく考え見るに、切支丹にてはこれ無く、ひとえに一揆にて候」と述べられ、その起因が領主らの苛斂誅求であることを承知しているのです。(『細川藩史料による天草・島原の乱』より:戸田敏夫氏)


過酷なキリシタン迫害について



キリシタン弾圧は秀吉時代から続くものの、民衆に向けられた厳しい信仰弾圧は、江戸時代に入り秀忠時代から特に邪宗キリシタン根絶の徹底が示され、1622年の宣教師追放では例外なく宣教師らを追放、火刑に処し、民衆に向けてもキリシタンへの見せしめのため激しい責め苦が施行されました。
島原領の松倉重政も当初は慮内のキリシタンへの弾圧に対しては徹底を欠き、1627年(寛永4年)にはそのことを将軍家光から厳しく叱咤され、「宗門史」によると“(自分の)生命と領地を救わんがために、キリシタンの教を絶滅することを約束した”と示されています。
同年、家臣と領内の百姓頭にキリシタン名簿を作成させ、キリシタンへは「切」「支」「丹」という3つの極印を額に焼印させ、これより棄教のためのすさまじい弾圧が始まるのです。

そのもっとも有名なものは松倉藩で行なわれた雲仙普賢岳地獄谷での“雲仙責め”といわれる悪名高い棄教の為の拷問で、その方法については言葉を絶するものがあります。
現在その場所には、ここで亡くなったキリシタンの殉教記念碑が建ち、雲仙教会があります。


見せしめの火刑ばかりでは殉教者は増え、かえってその崇高な死がキリシタンの心を鼓舞する結果を招いたともいわれ、結局は棄教の為にその方法は残虐性を増していたと考えられています。
“皆酷い方法で指を切られた。火で赤くした鋏でゆっくり細く肉を挟みとられ、次いで骨をばらばらに切られた。”
雲仙地獄谷の殉教記念碑
【雲仙普賢岳地獄谷の殉教記念碑】
フォト提供:TOMOさま(下記参照
また1627年寛永4年に行われた有家(村)の迫害は残忍極まるものでした。“硫黄や猛烈な臭気を発する物をつめた竹をとり、かくして顔に潰瘍を生じさせ、灰を他の鼻に差し込んだ”とあり、“有家の内堀作右衛門は手足の指を切り落とされ、三人の子供を目の前で殺され、ほかの信者とともに雲仙地獄の熱泉に漬けられ、引揚げられ、それでも転宗せず、最後は硫黄のたぎる湯坪に投げ込まれてしまった。”といいます。そして寛永6年、残虐な長崎奉行としてその名が知られた竹中采女正重次は、“竹の鋸で身を裂き、大きな石を首に括りつけ、硫黄の熱湯をかけられ、気を失うと、手当てをして蘇生させ、また繰返した。”とその残忍さを極めたといいます。(「西海の乱と天草四郎」より)
もちろんこれらは、一例に過ぎません。


重政が1630年に没した後は、子の勝家もそのままの弾圧を受け継ぎ、棄教のための拷問の激しさから寛永10年ころにはキリシタンらの表面的な棄教はほぼ終わったといわれています(鶴田文史氏)。


見せしめと棄教を目的とした拷問は、村々のキリシタン農民の頭や庄屋など、村役人層に限定されてはいました。その理由については、この地の民衆がほとんどキリシタンであり、農民を大量に殺すことが直接経済困窮に繋がる事にもなるため、果たせなかったようです。それでも同時に農民らにとっては、精神的支えを失っていったのです。


 雲仙地獄谷の殉教記念碑のフォトは、HP「TOMOのホームページ」TOMOさまのご好意により掲載させ
   ていただきました。この場を借り厚くお礼申し上げます。
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