≪天草・島原一揆蜂起≫

 天草・島原一揆のあらまし1  まえがき
 蜂起の起因
 天草・島原一揆のあらまし2
 松倉重政・勝家時代の苛斂誅求(島原地方)
  ・過酷なキリシタン迫害について(島原地方)
 天草・島原一揆のあらまし3   ・厳しい経済収奪による恐怖政治(島原地方)
 天草・島原一揆のあらまし4  寺沢広高・堅高の苛斂誅求(天草地方)
 一揆の性質
 この事件の呼称について  「一揆」と「乱」について
■ この事件の呼称について 「一揆」と「乱」・・・

元々寛永14年に天草・島原で起こった事件については、「島原の乱」あるいは「天草島原の乱」と言われてきました。これは、明治23年『史学会雑誌』(第13〜17号)に磯田良氏が“島原乱”という論文を発表されたものが、今日に至るまでそのまま残っているといわれています。磯田氏によれば、この事件について、天下転覆を狙う浪人主導による性格を持つものと位置づけ、近年まで「乱」という呼称で表記されてきました。


ところが最近になって教科書等にも次第に「天草島原一揆」と標記されることが多くなってきたのです。これについては、教科書標記で呼称をきめるにあたり、当時の史料にみられる呼称を採用することが元来の原則であることから次第に、この標記に変化してきたものと思われます。実際、この事件を語る史料の多くに、事件を起した側を“一揆”と呼び、またこの事件そのものもそのように呼んでいたことが残っています。


ただ、「乱」と「一揆」については、この事件の解釈や捉え方とも密接に関わっており、どちらがより正しいとは簡単に決められないものでもあるようです。
“一揆”とは、まず中世と近世とでは多少意味合いが違うことを前提として、“揆を一にする”つまり道を同じくする団結した集団を指します。この集団が、しばしば武装して他集団と対決するという性質が多く見られ、“蜂起”という概念が付加されてきました。そう考えると、この事件の性質から受けるイメージにより近いといえるでしょう。ただし、蜂起という性質を帯びた一揆という形は、江戸初期以降はほとんど見られなくなっていきます。


江戸時代になると、「百姓一揆」がしばしば見られるようになり、愁訴・門訴・超訴・強訴といった領主らに対して訴訟が起され、年貢の減免や借米などを願い出たりしたのです。他にも村ごと農業放棄をする逃散や、家屋・家財を破壊する打ちこわしなどがありましたが、これのどれも武装蜂起以上の位置付けはありません。


ところが戦後、この一揆の解釈については、新たな意味が加えられました。これが士・農・工・商・賤しいからなる身分社会から生まれた階層闘争です。これは、支配者層に対し民衆が勇気ある行動を起したこれら一揆に評価を示し、百姓一揆という概念が生まれてきたようです。江戸時代の百姓一揆については特に、幕府の体制に反旗をひる返すという大きな意味を持つものではありません。あくまで減免などにみられる経済的要求にとどまっているのです。


そういうことをあわせて考えると、やはり“乱”という体制への反抗という意味については、この事件の解釈によってはまだまだ考察する余地が残されているのかと思います。


一揆側に見られる矢文の中には、最初は領主らに対して不当に弾圧された者達が究めて厳しい経済状況ももはや限界に来たところで、少しは目にモノを言わせてやろうと思ったのだとし、ところが次第に事は大きくなり、領主への抵抗はしたものの幕府のお上にたてついたという大儀を持って蜂起したという自覚が一揆衆の多くには余り自覚されておらず、幕府正規軍の大軍を差し向けられてむしろ後に引けなくなってしまったのだということも言われています。もちろんこれについては、一揆を策動した浪人たち、百姓と宗門組織が密接に結びついた百姓組頭たち、そして多くの一揆一般民衆たちは、それぞれの思惑が必ずしも一致していたわけではないことが想像され、これら一揆衆をひとくくりにして考えることが出来ないことは言うまでもありません。


      ※「乱」と「一揆」については、深谷克己氏の説を参考にしています。

〔追稿〕(2002.6.23)


乱という表記についてもう一つ付け加えると、この戦いの場合は幕府に対する反乱という意味で(立場で)標記すると一揆勢は“叛徒”として位置づけられ「乱」という標記になるという考えもあります。一揆勢の人たちからしてみれば、お上である幕府を相手に反旗を翻したなどということは、この戦いの性質からも、またキリシタンの信仰上からも考えにくく、領主の苛斂誅求を何とか知ってほしい、そしてせめて心の自由を認めてほしいという切なる彼らの気持ちを察すれば、「一揆」と標記するのがいいのかもしれません。


“一揆”とはもともと、心を一つにして団結して行動すること(またはその仲間)で、では強訴とどうちがうのかというのは学問的な分野になりますので、私には明快に答えられませんが、強訴にみられる意図は明らかに百姓達の要求が明白で、その要求を果たすために人々が集まって一揆を結んで領主などに訴えるために押しかけたのが強訴にあたるでしょう。したがって、この戦いに関して言えば、幕府側は何度も篭城者になぜ一揆を起したのかと矢文を送って聞いています。彼らももちろん「訴」書状をもって伏して訴えたかったに違いありませんが、とくに島原地方の様子を見てお分かりの通り、人を虫けらのように扱うからこそ、当然そのようなことは聞き入れられなかったはずですし、棄教したとはいえキリシタンの心を持ちながらも生きている人間としての最後の力を振り絞って立ち上がらざるをえなかった、究めて厳しい現実がそこにはあったんですね。ただ悲しいことに、彼らの望みは叶えられがたい事でもあったが故に、もはや死を覚悟しての篭城戦ともいえるでしょう。この話についてはまた別稿にて書く予定です。




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