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史料1 一揆蜂起の起因 |
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先人の歴史家の諸先生方による史料をもとに、また抽出された漢文等を意訳しています。直訳ではありませんのでご注意くださいね。中にはやはり分からない単語や意味不明の箇所もあるため、全体の意味が分かる範囲で訳しています。先人の歴史家の諸先生方による訳も参考にさせていただいております。 |
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■(2) 『細川家記』(渡辺)小左衛門口上之覚から |
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(報告者:一揆首謀者の一人渡辺小左衛門が、肥後に四郎の家族を救出に行った際、細川家臣にだ捕される。)
島原の日野江(口之津付近)で、古いすその破れた御影があったが、それに表具をしようと思っていたところ、10月10日ころにそのままにしてあったはずの御影が誰も手をつけていないのに自然に新しい表層が出来上がっていた。この不思議を聞きつけ、大勢の人が集まってそれを拝んだ。その上、ベヤド=ガスハルというものが談義をしてまた不思議な物語をといたので、そこの代官がこの者達を捕縛し、これにキリシタンがいっせいに蜂起した。
※ベヤド=ガスハルというのは、角蔵・三吉の洗礼名か思われる。(煎本氏)
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■(6) ニコラス=クーケバッケルの報告書 |
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(報告者:平戸のオランダ商館長がバタビアのインド総督に宛てた報告)
有馬領主(有馬直純)が他の地へ移る際(日向へ加転封)、大部分の家来や貴人を連れて行かずそのものたちはこの地に残った。ところが後任に入ってきた領主(松倉氏)は、逆に自分の家臣をほとんど連れてきていた(1616年)。そこで旧領主に仕えていたものは収入を全て奪い取られ、貧困に迫られた結果、農夫となり生活の糧を求めざるを得なくなった。彼らは農民でありながら実は、熟練した武士だったが、新領主はそれが気に入らず、これらの者たちへ他の者より重税を課し、その負担に耐えられないほどの年貢を差し出すよう強要した。定めた税が払えないものは、領主の命により“葉が広くて広い草でつくった粗末な外衣”を着せ、日本人はこれを“ミノ”と呼んだ。これを首と胴に結びつけ両手を縄で背後に固く縛られた上、これに火を放つ。人々は火傷を負うばかりでなく、焼け死ぬものもあり、また体を激しく地面にたたきつけたり、水に身を投げ溺死するものもある。この悲劇は“ミノ踊り”と呼ばれた。暴君はこれに飽き足らず、婦女らを裸にし両脚をくくり逆さつりになどした。領民らは何とかその虐待に耐えていたが、その息子が領主になった今、父のやり方をそのまま受け継ぎ、やはり農民らに到底耐えられないほどの重税を課し、飢えに苦しめられ、木の根や草を食べてようやく命を繋ぐ他なかった。もはやこの苦痛に耐え切れなくなり、いずれ死を免れえぬものなら、いっそ一同そろって死につこうではないかという決心がついた。首謀者の中には自ら妻子を殺すものもあり、身内が辱めを受け汚されるのを見るに忍びなかったからという。
(略)農民らはキリシタンを迎え入れて寺院を焼き尽くし、教会を設け、軍は十字架の旗を用いた。彼らは勝利を得るも敗北に終わるも全て神の栄光のためであり神への奉公のためだといった。彼らは国内に号令し、多くのキリシタンや宣教師らが罪なくして流した血に報いる日が来た、信仰のために死につく覚悟が出来ていると説いた。
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