島原・天草一揆 史料編 
 ここでは執筆途上・予定の資料類を参考までに掲載しています。本文完成がいつに
 なるかわからないのでm(__)m、資料としてご活用下さい。
  一揆蜂起の起因▼   その他1
  松倉氏・寺沢氏の苛斂誅求を示す文書   その他2
  家光の方針と一揆勢の信念 
  天草富岡首塚碑(富岡吉利支丹供養碑)現代訳 ・・・2005.6.19
  島原有馬首塚碑(鈴木重成建立供養塔)現代訳 ・・・2005.6.19
史料1 一揆蜂起の起因
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先人の歴史家の諸先生方による史料をもとに、また抽出された漢文等を意訳しています。直訳ではありませんのでご注意くださいね。中にはやはり分からない単語や意味不明の箇所もあるため、全体の意味が分かる範囲で訳しています。先人の歴史家の諸先生方による訳も参考にさせていただいております。
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 <キリシタン御影の代官殺傷事件>
   (1)『細川家記』 (2)『細川家記』2小左衛門口上之覚
 <松倉苛政起因による事件 嫁の水牢死事件など >
   (3)『黒田長興一世記』 (4)『諫早記録』
   (5)ドアルテ・コレアの書 (6)ニコラス=クーケバッケルの報告書
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★2つの事件 概要

 
一揆の起こりについては、領主の苛斂誅求の現状から起こった代官殺人事件、キリシタン宗門をとがめられた事から起こった代官殺人事件など、これに似た事件が村々で起こりました。
一つは南有馬村の庄屋、次右衛門の弟である角蔵が、北有馬村の百姓三吉と、法度のキリシタンの絵像を掲げて人々を集め拝ませて政をしているという話が島原へ伝わった。島原の代官、本間九郎左衛門と林兵左衛門は、小早船(こばやぶね)で使いを送り、角蔵・三吉とその家族合わせて16人を捕らえ島原で見せしめとして殺害してしまいます。これに怒った百姓達は、代官林兵衛門を襲って殺し、本間は危うく逃げ延びました。この騒動をきっかけに近隣の村々も蜂起したというもの。
もう一つは、むごい年貢米などの取立てによって納められなかった家のある娘が人質に捕らえられ、臨月に関わらず水牢で苦しみ命を落とします。それに怒った百姓達が蜂起したというものでした。
しかしながら、これらは口火を切った出来事に過ぎないことは言うまでもありません。

史料により多少詳細は異なっています。一部のものしか過ぎませんが簡単に説明していきます。



■(1) 『細川家記』より

 
 (報告者:島原城下に一揆勢が迫り熊本の細川家から島原城主松倉家に送られた使者、道家七郎右衛門)


この事件のおこりは、口之津で御影(みえい)をかけ唱えたところを捕まり、代官の林兵左衛門がその御影を引き裂くと、その場で兵左衛門を討ち果たした。


■(2) 『細川家記』(渡辺)小左衛門口上之覚から

 
 (報告者:一揆首謀者の一人渡辺小左衛門が、肥後に四郎の家族を救出に行った際、細川家臣にだ捕される。)
 

島原の日野江(口之津付近)で、古いすその破れた御影があったが、それに表具をしようと思っていたところ、10月10日ころにそのままにしてあったはずの御影が誰も手をつけていないのに自然に新しい表層が出来上がっていた。この不思議を聞きつけ、大勢の人が集まってそれを拝んだ。その上、ベヤド=ガスハルというものが談義をしてまた不思議な物語をといたので、そこの代官がこの者達を捕縛し、これにキリシタンがいっせいに蜂起した。

※ベヤド=ガスハルというのは、角蔵・三吉の洗礼名か思われる。(煎本氏)



■(3) 『諫早記録』

 
 (報告者:事件発生直後佐賀の鍋島家臣が江戸へ送った報告))

松倉領の未進米取立てがあまりに厳しいので領民達が反抗し、一旦キリシタンとなって幕府から改めて検見の役人が派遣されたなら詫びを入れようとした。付け加えて言うと、若輩の童子が奇妙な教えを説き人々をキリシタンに引き入れた。それを改めるよう申し付けたところ一揆が起こった。


(4) 『黒田長興一世記』

 
 (松倉の苛性により百姓が蜂起したことが記されたもの)

松倉領では寛永14年9月頃から年貢の取立てが厳しくなり、上納しないものは母や妻子を捕らえ、川の中の水牢へ入れ苦しめたという。家老隠居の田中宗甫は未進の者の詮索に力をいれ、自ら村々を回って成績を上げていた。
そのころ口之津村に大百姓、与三右衛門というものがいて、30俵の未進米が納められなかったので上納延期を申し出た。ところが聞き入れられずその家の嫁が捕らえられ、臨月にもかかわらず水牢へ入れられてしまった。上納すればすぐにでも釈放してやろうといい、夜昼6日間も水牢へ漬け、10月はじめに嫁は水牢中で子を産み、苦しみのあまりそのまま亡くなってしまった。

舅の与三右衛門はこの恨みを晴らしたいと百姓らに訴え、これまで苦しめられてきた7〜80人もの大百姓らは口々に命を投げ出しても仇を討とうと言い出した。そしてその親類縁者が集まり、7〜800人が心を一つにし仇をとる手段をめぐらせた。この嫁の父も天草領に住み、娘の父は死をとても恨み与三右衛門に加担を決めた。天草領でも年貢の取立てが厳しかったため皆この計画に加わるようになった。この地の立ち上がった百姓らはのこらず立ち返り(キリシタンになり)めいめいの屋敷を焼き払い、大勢で宗甫を取り囲もうとしたが、夜に紛れ城内(島原城)へ逃げ込んだところ、百姓らは追いかけて城下を焼き払い、城下にあった兵具蔵を取り、大筒・玉薬・弓・槍・長刀・兵糧などを奪った。しかし島原城の構えは厳しかったため攻め落とせなかった。そこで原城を占拠し、老若男女3万6千人が立てこもった。



(5) ドアルテ・コレアの書

 
 (報告者:当時大村藩の囚われ人となっていたポルトガル人が、獄中で見聞きしたことをマカオの神父アントニオ=カルディム師に宛てた報告)


この反乱の原因はキリシタン宗門のためでなく、ただ領主が将軍や大名らに対して自らの苛斂誅求を隠す目的でキリシタン一揆である。農民らは毎年米や大麦・小麦の他にもあらゆる名目で租税を課せられ、煙草の葉は一株についてその半分を、しかも極上のものを選んで取り上げられ、ナス一本にも実を何個と割り当てられた。取り上げるものがないと、山に入り塩釜に焚く薪まで切らせた。年貢が納められなければひどい呵責を受け、妻・娘が人質に取られた。妊娠している女も許さず凍った池に投げ込むなど、多くの女を虐殺した。ある名主の娘は、素裸にされ全身に灼熱の鉄片をあてられ、父は娘に加えられた残虐行為を見て我慢ならず役人に飛び掛った。他の農民らもこれに合力しとうとう役人を殺してしまった。


(6) ニコラス=クーケバッケルの報告書

 
 (報告者:平戸のオランダ商館長がバタビアのインド総督に宛てた報告


有馬領主(有馬直純)が他の地へ移る際(日向へ加転封)、大部分の家来や貴人を連れて行かずそのものたちはこの地に残った。ところが後任に入ってきた領主(松倉氏)は、逆に自分の家臣をほとんど連れてきていた(1616年)。そこで旧領主に仕えていたものは収入を全て奪い取られ、貧困に迫られた結果、農夫となり生活の糧を求めざるを得なくなった。彼らは農民でありながら実は、熟練した武士だったが、新領主はそれが気に入らず、これらの者たちへ他の者より重税を課し、その負担に耐えられないほどの年貢を差し出すよう強要した。定めた税が払えないものは、領主の命により葉が広くて広い草でつくった粗末な外衣を着せ、日本人はこれをミノと呼んだ。これを首と胴に結びつけ両手を縄で背後に固く縛られた上、これに火を放つ。人々は火傷を負うばかりでなく、焼け死ぬものもあり、また体を激しく地面にたたきつけたり、水に身を投げ溺死するものもある。この悲劇はミノ踊りと呼ばれた。暴君はこれに飽き足らず、婦女らを裸にし両脚をくくり逆さつりになどした。領民らは何とかその虐待に耐えていたが、その息子が領主になった今、父のやり方をそのまま受け継ぎ、やはり農民らに到底耐えられないほどの重税を課し、飢えに苦しめられ、木の根や草を食べてようやく命を繋ぐ他なかった。もはやこの苦痛に耐え切れなくなり、いずれ死を免れえぬものなら、いっそ一同そろって死につこうではないかという決心がついた。首謀者の中には自ら妻子を殺すものもあり、身内が辱めを受け汚されるのを見るに忍びなかったからという。

(略)農民らはキリシタンを迎え入れて寺院を焼き尽くし、教会を設け、軍は十字架の旗を用いた。彼らは勝利を得るも敗北に終わるも全て神の栄光のためであり神への奉公のためだといった。彼らは国内に号令し、多くのキリシタンや宣教師らが罪なくして流した血に報いる日が来た、信仰のために死につく覚悟が出来ていると説いた。



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