第1章  キリスト教伝来1  第4章  徳川秀忠の禁制
 キリスト教伝来2  第5章  徳川家光の禁制
 第2章  秀吉の禁制1  第6章  島原キリシタン史(前)
 秀吉の禁制2  天草キリシタン史(前)
 第3章  徳川家康の禁制1  第7章  天草・島原地方の特性
 徳川家康の禁制2
   第3章 徳川家康の禁制1
 1、家康時代初期のキリスト教界(第3章-1)
2、禁制下に起きた事件(第3章-1)
3、伴天連大追放(第3章-2)

1、家康時代初期のキリスト教界


■家康初期のキリシタンへの対応

 徳川時代初期においては、秀吉の発布した伴天連追放令や石の高い武士らへの禁教令は受け継がれたものの、依然ポルトガル・スペインとの貿易推進のためキリスト教布教が黙認される向きにありました。1612年のキリスト教禁令が発布されるまでのおよそ10年間は、キリスト教が最も発展した時代でもありました。長崎では日本で最初の2名の司祭が叙階され、大村・有馬・天草などもセミナリヨの生徒が増加し、特に有馬領は顕著でした。京都においても日本初の修道女会ができたといいます。

 フィリピンとの通商貿易にも極めて友好的な態度で臨み、今だ貿易に関しては宣教師等の仲介の有効性を認めざるを得なかった幕府は、表面的にはキリシタン禁制を強く打ち出し新たなキリスト教関係者の入国は厳しく監視したものの、国内にいた宣教師らに対しては布教活動の制限を加えながらしばらくは容認の態度を示していました。



プロテスタントとカトリックの対立

 1600年(慶長5年)豊後にオランダ船リーフデ号が漂着し、このことが日本国内のポルトガル人やスペイン人の衝撃を与えました。日本市場をめぐるポルトガル・スペインのカトリック対イギリス・オランダのプロテスタントの対立でした。リーフデ号航海長のイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)と航海士ヤン・ヨーステンが徳川家康に謁見した際、海図や外国の事情などを話すと家康は非常にそれらに興味を示したといいます。同年関が原の戦いに勝利し実権を握った家康は、アダムスとヨーステンを外交顧問として優遇したことで、これまで日本で布教をしていたカトリック界に打撃を与えました。カトリック界はカトリック信仰を申し出る日本人へ異なった教理を吹き込まれることを恐れ、またのような事態に再三カトリック界はアダムスへカトリックへの改宗を求めますが反撃の憂き目に会ってしまうのです。


 1611年にスペイン使節バスティアン・ビスカイーノが港を測量していた折、その目的を家康から尋ねられたアダムスは、水の深さを測量することでそこにどの程度の船が入港できるか知るためだと答え、スペインはかねがねこうしてま
ず托鉢修道士たちを送り込んでおいて後に兵士を送りこみその土地を支配するのだと述べ、これら修道士を国外へ追放するべきであると答えたのでした。(これによりソテロが建造した浅草教会の貧しいライ病患者ら28人が斬首されてしまいます。)


 これらを契機に1613年家康による伴天連追放令がだされることになってゆくのです。これらの出来事は当時のヨーロッパ事情をそのまま反映していました。旧教国ポルトガル・スペインに対する新教国イギリス・オランダの登場です。後者の2国は、キリスト教の布教と貿易を切り離して日本との貿易を進めようとしたことで、幕府に後に平戸に商館を建設します。新教徒オランダ・イギリスが旧教徒ポルトガル・スペインに領土侵略意図があることを宣伝したのです

<2、禁制下に起きた事件


マードレ・デ・デウス号(イッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号)事件


 禁制下においてキリスト教が黙認状態だったさなかの1608年、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した折、家臣ら朱印船乗務員とポルトガル人との間に紛争が生じ、抵抗した60人あまりの日本人が市の官憲により射殺されるという事件が起きました。有馬は家康の許可により1609年、事件の紛争に関与していたことからマカオより長崎に入港した黒船の船長アンドレ・ペッソアを喚問しましがた拒否されたことを受け、その報復として有馬は長崎奉行長谷川左兵衛らとその船を撃沈するのです。教会にとって有力な有馬晴信の行為は教会関係者に衝撃を与えました。


岡本大八事件


 マードレ・デ・デウス号事件に目をつけた家康の側近で本多正純の与力、岡本大八が1612年3月(慶長17年)キリシタン大名有馬晴信の領土還付をこの恩賞として斡旋すると持ちかけ、幕府への用立てなどに対する資金と偽り、晴信から多額の金品を騙し取ったのです。この企てが発覚し、大八は捕らえられますが、彼は獄中から有馬がデウス号攻撃の手ぬるさを奉行の長谷川になじられたことに激怒し、長谷川の暗殺を企てたことをあかるみにしたことで、結局大八は処刑、晴信は甲斐の大和村丸林へ流され切腹を命ぜられます。このとき晴信はキリシタンの教理によってそれを拒み、老臣に首を落とさせたといいます。この事件で着目しなければならないのは、ひとりは家康の近臣、もう一人は有力大名、両者ともキリシタンであったことです。幕下の旗本と西国大名の間で知行問題が取引の対象になり、また将軍家臣が暗殺対象になるなど、封建社会の樹立期にあってこれらは悪しき形で露呈された事件といえるでしょう。


■事件の波紋


 岡本大八事件などこれらの事件が黙認されてきたキリスト教への弾圧の口実となり、とうとう家康は1612年8月にキリシタン禁止を表明、京都所司代板倉勝重にキリシタン取締りを命じ、駿府の家臣団らを対象とし摘発・改易・追放し、旗本のジョアン原主水(はら もんど)などが処分されたのです。その意図は第一に、「キリシタン武士の改易」としながらも、いよいよ庶民にも禁制の余波がやってくるのです。


 この事件によってのち2年はポルトガル船が来航しなくなり、秀吉時代からポルトガル商人との仲介を務めて家康の信任も厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父がマカオに追放されてしまいます。キリスト教界とって、幕府との重要な窓口となっていたロドリゲス神父を失うことは大きな痛手となりました。一方幕府は、この頃オランダ商船が初来航することによって新たな貿易への期待も生まれることとなるのです。

 以降迫害は有馬領が特に厳しかったといわれています。有馬晴信が改易後、棄教によって領土を安堵された子の直純はそれに答えるように厳しい迫害を行いました。有馬領での迫害では多くの殉教者を出し、それをまた崇敬するキリシタンらが更に信仰を奮い起こすという報告が家康の元の届いたのです。これには“罪人を拝む邪教”と激しく非難したことが伝えたれています。


〔有馬晴信の甲斐配流〕補足


有馬晴信配流の地、甲斐の国の初鹿野村※1は、駿府城主徳川大納言忠長卿の家老職、谷村城主鳥居土佐守成次の領地でした。当時の甲斐には、全国でも唯一キリシタンのいなかった地といわれています。※1(現、山梨県東山梨郡大和村初鹿野)


幽閉の後、慶長17年5月6日に板倉周防守重宗及と鳥居土佐守成次が検使役となって150人を従え、幕府の命により晴信に自害を言い渡しましたが、キリシタンの教理により自害ができないということで、老臣の梶左ヱ門に命じて首を落とさせたといいます。


死に際において、領地に残した息子直純の身を案じていた晴信は、幕府役人から「息子直純が幕府から所領の相続を安堵されたことを告げられ、この恩恵を授かるからには家臣ともどもに棄教し、宣教師を領内から追放するよう息子に命じた。(外山幹夫氏)」といい、直純は正妻を離縁して家康の曾孫女を妻とし(海老沢有道氏)、直純の迫害の火蓋が切って落とされたのです。


〔追記〕
山梨の初鹿野丸林の通称「有馬屋敷」跡からは、十字架のついた古刀が出たといわれています。河口湖町出身の作家、中村星湖により発見されたこの跡地には、ひっそりと小さな家神らしい石像があります。

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