■家康初期のキリシタンへの対応
徳川時代初期においては、秀吉の発布した伴天連追放令や石の高い武士らへの禁教令は受け継がれたものの、依然ポルトガル・スペインとの貿易推進のためキリスト教布教が黙認される向きにありました。1612年のキリスト教禁令が発布されるまでのおよそ10年間は、キリスト教が最も発展した時代でもありました。長崎では日本で最初の2名の司祭が叙階され、大村・有馬・天草などもセミナリヨの生徒が増加し、特に有馬領は顕著でした。京都においても日本初の修道女会ができたといいます。
フィリピンとの通商貿易にも極めて友好的な態度で臨み、今だ貿易に関しては宣教師等の仲介の有効性を認めざるを得なかった幕府は、表面的にはキリシタン禁制を強く打ち出し新たなキリスト教関係者の入国は厳しく監視したものの、国内にいた宣教師らに対しては布教活動の制限を加えながらしばらくは容認の態度を示していました。
■プロテスタントとカトリックの対立
1600年(慶長5年)豊後にオランダ船リーフデ号が漂着し、このことが日本国内のポルトガル人やスペイン人の衝撃を与えました。日本市場をめぐるポルトガル・スペインのカトリック対イギリス・オランダのプロテスタントの対立でした。リーフデ号航海長のイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)と航海士ヤン・ヨーステンが徳川家康に謁見した際、海図や外国の事情などを話すと家康は非常にそれらに興味を示したといいます。同年関が原の戦いに勝利し実権を握った家康は、アダムスとヨーステンを外交顧問として優遇したことで、これまで日本で布教をしていたカトリック界に打撃を与えました。カトリック界はカトリック信仰を申し出る日本人へ異なった教理を吹き込まれることを恐れ、またのような事態に再三カトリック界はアダムスへカトリックへの改宗を求めますが反撃の憂き目に会ってしまうのです。
1611年にスペイン使節バスティアン・ビスカイーノが港を測量していた折、その目的を家康から尋ねられたアダムスは、水の深さを測量することでそこにどの程度の船が入港できるか知るためだと答え、スペインはかねがねこうしてまず托鉢修道士たちを送り込んでおいて後に兵士を送りこみその土地を支配するのだと述べ、これら修道士を国外へ追放するべきであると答えたのでした。(これによりソテロが建造した浅草教会の貧しいライ病患者ら28人が斬首されてしまいます。)
これらを契機に1613年家康による伴天連追放令がだされることになってゆくのです。これらの出来事は当時のヨーロッパ事情をそのまま反映していました。旧教国ポルトガル・スペインに対する新教国イギリス・オランダの登場です。後者の2国は、キリスト教の布教と貿易を切り離して日本との貿易を進めようとしたことで、幕府に後に平戸に商館を建設します。新教徒オランダ・イギリスが旧教徒ポルトガル・スペインに領土侵略意図があることを宣伝したのです。
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