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【神戸市立博物館所蔵】
ザビエル図
聖ザビエル像 |
1543年(天文12年)8月に、ポルトガル人が種子島に来航したことにより日欧交渉の歴史が幕を開け、1549年(天文18年)7月にはついに、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、山口・豊後・京都へとキリスト教の布教を行っていきます。当時キリスト教の布教活動は、世界的に低文化圏への植民地的布教という特色を色濃く持っていたのですが、ザビエルが日本来日以前から日本人について「克己心が強く、ゼウスをはじめ自然界について新知識を求めている国民」とその国民性を評価し、神儒仏という特殊な宗教・文化圏への布教にあたってまず日本人の理解に努め、民族性との融合を目指すことにより、日本人の心の扉を開こうとしたのです。 |
また、ザビエルによる見聞録等により、日本が世界に知られ、その高く評価された国民性がヨーロッパの日本人観形成に影響したといわれています。
さて、キリスト教の布教の現状なのですが、ヤジロウ(またはアンジロウ)が通訳・助手としてザビエルを助け100名ほどを受洗させますが、その中にはのちに日本人初の教皇パウロ三世との謁見を果たしたベルナルト、禁教下の鹿児島で半世紀もの間不況に尽力したミゲルらがいました。それでも教義を日本語訳することにはとても苦心し、キリスト教のゼウス(でうす)を真言宗の“大日”と訳すなど、ニュアンスを誤解されるなど試行錯誤した後がうかがえます。
ザビエルの志を継いだのがコメス・デ・トルレスです。トルレスは豊後で大友宗麟の保護を受けイエズス会の孤児院や病院が建てるなど、大友氏の勢力拡大と共に北九州(口之津の有馬義直、志岐の志岐鎮経領内)へと広がり、さらには関西地方へと広がっていきます。そして足利義輝からキリスト教会保護の「制札」を受け、日本人は真新しい高度な知識・高い文化・広い世界に興味を示し、キリシタンに好意的な織田信長に保護され布教が進んでいきます。トルストは温厚で忍耐強くまた、日常の態度にまで日本人的作法を取り入れるなどその姿勢は好意を持たれ、日本布教として18年勤め、1570年(元亀元年)志岐で亡くなるまでザビエルの遺志を継ぎ教会の基盤を固めていったのです。またこの年、漁村に過ぎなかった長崎がポルトガル潜入港により船着地として開港されると、商人・信者の移住によって当時日本において類を見ない国際都市が出来上がりつつありました。
参考:イエズス会は、1550年〜70年代、豊後・京都・長崎を拠点とし、また1580年(天正8年)には日本管区を設置し、下(西九州)・豊後・都の3地区にわけ、それぞれに教区長を配置し、布教のための基盤を作りこれらの地は発展し東日本へも伸びていきます。1570年ころには信者数が2・3万ほどだったのが、1600年ころには30万人ともいわれ、「1581年度イエズス会日本年報」では、長崎を中心とする下地区(有馬・大村・平戸・天草・五島・志岐)には11万5000人と示されていることに驚かされます。まさにのちの天草・島原一揆(島原の乱)の地は、キリシタンの地だったといえます。
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フランシスコ・ザビエル |
*ザビエル上陸450周年記念 ホームページ |
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*神戸市立博物館(ザビエル肖像画)
キリシタン大名、高山右近旧領土の茨木市郊外の民家に秘蔵されていたもの。※「名品紹介」ページ参照。このページには更に、天草・島原一揆でただ一人の生き残りとされる山田氏の『泰西王侯騎馬図』も常設されています。 |
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