第1章  キリスト教伝来1  第4章  徳川秀忠の禁制
キリスト教伝来2  第5章  徳川家光の禁制
 第2章  秀吉の禁制1  第6章  島原キリシタン史(前)
 秀吉の禁制2  天草キリシタン史(前)
 第3章  徳川家康の禁制1  第7章  天草・島原地方の特性
 徳川家康の禁制2
   第1章 キリスト教伝来 (Page2)
1、ザビエルの抱いた日本〜コメス・ド・トルレス(第1章-1)
 2、ヴァリニャーノらの布教の功績(第1章-2)
3、キリシタンで栄えた長崎の地の運命(第1章-2)

<2、ヴァリニャーノらの布教の功績>


■社会制度を使っての布教


(ヴァリニャーノ像
 :上智大学キリシタン文庫蔵)
 日本での布教活動にその名を残すイエズス会の巡祭師アンドレ・ヴァリニャーノは1579年(天正7)に来航しました(一回目)。1570年より布教長となっていたフランシスコ・カブラルの日本における不理解があったこともあり、特にヴァリニャーノは日本人の理解に勤めるために、日本文化の研究に心を砕き布教方法の指針を打ち出しました。

 ではどのような形で布教していったのでしょう。当時日本は、「領主が優秀なら家臣も優秀である」というわれるように、ザビエルの指針により上から下へといった現存していた封建的社会機構を利用しながら推し進めていました。なかでも信長は、キリシタンをとても庇護しキリスト教の布教に力を貸したのです。時折信長は城に神父らを呼んでは、異国の話や自然科学・キリスト教の教理について話をさせ、興味深く聞き入り、多くの質問をし語り合ったといいます。その学問的にも高く実に理論にもたけた彼らに感心し、日本においては下克上の浮世にあって彼らの唯一絶対なる一つの神を信じる姿にいささかの疑念の余地もなく、「揺らぎなき礎」の上につねに心清くあろうとする彼らの生き方に信頼の念を抱いたことが想像され、腐敗しきった仏僧とは大違いだといったこともいったとされています。信長が地球儀をはさんではじめて知る高い知識と文化性にとんだ南蛮人宣教師らの話に聞き入り、遠い異国の地から困難かつ危険な航海をしながらも、彼らの信じる神の教えを広めるという崇高な理念のためにやってくる敬虔さに、ねぎらいの言葉をかけ彼らを友人のように慕っていた様子などが、ルイス・フロイスの「日本史」などからも伺い知ることが出来ます。こうして家臣・武士・領民に至るまで全てが同じ神を信じ、俗世の利害などに揺らぐことなくひたすら神に奉公することがしいては主君のために忠義を尽くすことでもあることから、その極めて厳格なキリシタンの厳しい規律と統制力を持った組織力をもって、キリシタンの教えは、仏僧侶らの強い反感を受けながらも裏切りや計略に満ちた乱世の武士達の心に受け入れられていくのです。


■教理の教育

 ヴァリニャーノの示した指針は、「われわれは彼ら(日本人)の国に住んでいる」という極めて謙虚な姿勢があったといわれています。日本人にまず自分達を理解してもらうために日本人の礼節を学び、日本人と同じものを食べ、茶道をたしなむなど、努めて日本文化との融合を模索しました。それにはまず、教理を学ばせるために、また日本人聖職者養成をも目指し、セミナリヨ、コレジオ、ノビシャードといった極めて高度な教育機関を建て、神の存在証明において自然科学や哲学を用い、それはまた学問にとどまらず、青少年の教養と全人的向上に役立つあらゆる学問・技芸までが教授されたのです。これはイエズス会的ヒューマニズム精神に基づく指針でもあり、全ての人間が教育によって理想的人間像を形成しうる可能性を持ちえていることを表したといえるでしょう。これらの教育機関は、特に九州に多く、天草・島原一揆の舞台となった有馬領でも1580年(天生8)に有馬晴信の援助を受け日野江城下に建てられました。禁制の嵐が吹き荒れた時代に至っては、最後に残ったセミナリヨもこの天草の地だったとされています。セミナリヨでは、原典のラテン語やそれにあわせた歴史・文化・思想・人文学や、日本の「太平記」といった自国の古典文学なども学んだといわれています。また器楽合奏・絵画といった教養的教育にも及んだとされています。そして、コレジオにおいては、高度な天文学・地球論・気象学や暦学をはじめ、ヒューマニズムの問題を生物学的・心理学的観点から科学的・客観的に解明しようとするなど、非常に高度だったことが伝えられています。またキリシタン大名以外の地では街頭に立って人々に教えを説き、貧しい人々も教義を学ぶ上で当時最新の科学などの学問にすら触れることが出来たのです。布教にあたっては、領主らのポルトガル船との外交といった利害と少なからず結びつきながらもらも、南蛮貿易やキリシタン布教に伴う西欧思想・文化に触れ、日本人の世界観はかつてないほどふくらみ、今まで特権階級にしか学ぶことの出来なかった高度な学問や思想が、これらの教育機関や教理理念を通して庶民に与えられ受け入れられていったのです。キリスト教の思想教育は、「精神的自由と人格的自覚を与えた解放の福音」でもあったのです。



■弱者救済の社会的奉仕活動

 キリスト教の教理においては「どちりなきりしたん」にも表されているように、もっとも大切な行いは「わが身のごとく(ポロシモ)隣人をおもへ」でした。戦乱の世にあっては、常に戦いの勝敗によって人々の運命は領主の運命に左右され不安定で、そこここに寡婦や難民・孤児などがあふれているのが現状でした。そこでイエズス会は長崎などをはじめとして、慈悲屋といった養老院・孤児院・難民救済所や寡婦の救済、キリシタン禁制の時代になると殉教遺族の保護なども行われました。また養正屋と呼ばれる内外科病院、そして人々から見放された癩(ライ)病患者の病院を建てて奉仕が行われ、賤民の仕事とされていた葬送の棺かつぎや墓堀にまでいたり、あらゆる社会奉仕事業がコンフラリヤ(教会機構)を使って行われたのです。特に特記すべきだとすれば、この癩病患者への献身的な奉仕が挙げられるでしょう。神仏からも見放された人へ魂の癒しを行い、臨終の人の心を支え、時としてその行いは思いのほか治療効果を挙げたともいわれ、世の中から差別される弱者と共に生活し、迫害の時代に及んでは共に拷問の苦痛に耐えいたわりあう姿があったといわれます。こうして献身的にキリスト教の愛がキリシタン・異教徒問わず実践されたのです。このような姿は人々にキリシタンへの畏敬の念をあたえながらも、同時に畏怖の念をも植えつけたことを記しておかなければならないでしょう。


■道徳教育・・・一夫一婦制

 ザビエル、ヴァリニャーノ、フロイスらが共に日本の悪しき風土として挙げるのが、日本人の残虐性を指摘した堕胎や嬰児殺し、そして悪しき慣習ともいえる一夫多婦制です。堕胎や嬰児殺しの多くの場合が経済的な事情、社会的な理由とされていますが、母親が薬を飲んで子供を堕ろす、生まれた子供の喉に足を乗せて窒息死させるなどことのほか多く、日本の女性がキリストの教えを学びこのモラル観を払拭できる環境をが必要だと願ったでしょう。海老沢氏はこれを「女性の人格を尊重」するものとし「尊神崇祖という封建的観念がら多妻制が正当化されていたこの時代において、キリシタンが女性をあらゆる意味において封建的抑圧から解放し、人格的自覚と教養とをもたらした」と述べています。(※1)そして一夫一婦制は、教理における結婚という秘儀にも結びつき厳しく定められていたキリシタンの教えとして、時として布教の妨げにもなりました。時の秀吉は、この教えがなければキリシタンになろうといったエピソードも残っています。

※1

『切支丹の社会活動及南蛮医学』海老沢有道著によるものですが、同じく海老沢氏の『高山右近』で紹介された文にて引用しています。。

性道徳の教育について、日本に見られる男色・一夫多妻という習慣は、最もパアデレらが非難したといい、サカラメント(聖礼典)として、一夫一婦への合意による婚姻は、デウスの与えたナツウラ(自然)の法によるもので、子孫の養育と救霊という神聖な目的を持つものであり、一切の不貞は霊魂を永遠に汚すものとして退け、子供中心の神聖な家庭を保つべきこと、などとしています。


(『どちりいな』による教え、老沢有道氏の日本思想体系「キリシタン書・排耶書」より)



■世界初の組織的な人身売買阻止

 戦乱によって生まれる貧困は、ポルトガル船などの海外貿易に際して貿易商と結びつき、弱者の人身売買が横行していました。人間略奪や売買、婦女子の性奴隷化や売買、奴隷労役などは社会倫理的にも想像を絶するほど横行していたのです。このような状況の中で、ポルトガル人による奴隷商人と結びつきが決してないのだということを日本のイエズス会の宣教師らは示すためにも、ポルトガル国王へ奴隷交易禁圧の法令交付を要請しました。宣教師らは道徳教育と模範的なキリシタン教育の実践を行うために、当時の西欧でも困難だった奴隷売買禁止の勅令をポルトガル国王から1571年に受けるに至るのです。これらは世界初の奴隷解放運動ともいわれています。




キリシタンで栄えた長崎の地の運命


 乱の舞台となった有馬領の話をしましょう。ザビエルの意思をついで東洋の布教史に大きな功績を残し
たヴァリニャーノ神父が巡祭師としてポルトガル船で肥前口之津に来航したのは1579年のことでした。このころ領内はキリシタンに反対する勢力の力が強く、特に龍造寺軍に打ち滅ぼされそうになった有馬鎮純がヴァリニャーノ神父に援助を申し出て自らも洗礼を受けました。そしてヴァリニャーノ神父の物資支援などによってながらえることができ、当時ちょうど豊前での乱にも手を焼いていた龍造寺軍はやがて撤退するに至ります。ヴァリニャーノらの厚い支援を受けていた有馬氏のことを知った大村純忠は、ポルトガル船の貿易港が有馬領の口之津へ移ることを懸念し、大村氏は長崎をイエズス会に寄進し、この地は教会の直轄領となったのです。こうして長崎はいっそう発展しキリシタンの町として繁栄するのです。

 さてその直轄領となった長崎も、本能寺の変で信長が亡くなりやがて秀吉の世になると、九州討伐によってこれらの地が平定され、最初はキリシタンに寛容的だった秀吉が一変して伴天連追放令を下すことになってしまいます。信長の庇護を受け、秀吉も当初はキリシタンに寛容だったにもかかわらず、ではなぜ状況が一変してしまったのでしょう。



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