島原・天草一揆の経過・・・〜寛永14年10月まで(1637年) 
〜10月 | 11月 | 12月 | 1月 | 2月 | 最後の総攻撃 | 3月〜
【見方】
 幕府軍の説明を主に緑で色づけしています。
 
一揆側(その他説明)は紺色の文です。

1634 (寛永11年〜) 凶作が続く
1635 (寛永12年7/25)
九州西南岸、大風による被害、熊本領内36000戸の民家倒壊、天草諸島の陸・海産物大被害。
1636 (寛永13年6/)
長雨、日照り長期化で本格的な飢饉。細川領内では細川越中守忠利が「飢え候ものには法度は立てざるものにて候」と述べたといわれ、何らかの策が講じられたと思われます。が、島原・天草領内はむしろ飢饉下での苛斂誅求は惨さを究めました。津奈木一ヶ村137人餓死者。
1637 (寛永14年) 大飢饉
 4/ “4月に至って飢渇也。死人道路にみつかる有様”
“首をくくりて死するもの有り”
 6月
農民の借米訴訟〕
・島原松倉領で山田右衛門作が未進米の借米訴訟するが失敗。
・天草でも借米訴訟がおこるが失敗
天草の栖本郡代・本戸郡代・河内浦郡代へ百姓達は訴えにきますが、門前払いされます。そこで百姓達は富岡城代の三宅へ訴訟に行き、三宅は唐津へ願い出てやろうといい、今一度郡代へ願い出るよう言い聞かせたといいます。それに怒ったのは郡代達といわれ、城代との間の意思疎通を欠いていたのが現状だったと伝えられています。
 預言書
小西行長遺臣ら5人が策動し、25年前に伴天連追放のためこの地を去った、ママコス神父が残したという『末鏡』という「未来記」(預言書)を触れ回りはじめる。
 耶蘇天誅記』より「末鏡(すえかがみ)」
 9月
未進者に対する刑罰がかなりひどい時期。(蓑踊り、水牢など)


9.30 四郎は後の母の供述によると、大矢野の渡辺小左衛門の弟、左太郎の家へ行った。(小左衛門の弟は四郎の姉婿に当たる。)
 このころの四郎の様子(四郎母)
『島原始末記』
四郎母は、四郎に別れ際「私のことは忘れよ」といったという。


 10月
・異常な自然気象による現象が、終末思想を想像させて民衆は不安に駆り立てられ動揺した。このころになると、世の中が火の地獄と化す前兆という風説も流れ出す。
・朝焼けや夕焼けが鮮やかに映える。
・季節外れの桜が狂い咲く。
☆≪口火を切った口之津の2事件≫
上旬
大百姓嫁の水牢死事件〕
口之津大百姓の与三左衛門の嫁が、未進米の肩代わりに捕らえられ、臨月にもかかわらず水牢へ6日入れられ、水牢内で出産し息絶える。嫁の父は変わり果てた娘と赤子の姿を見て嘆き悲しみ、それに糾合したものたちが立ち上がった。
 ドアルテ・コレアの書
 『黒田長興一世記』
上旬

下旬
口之津代官殺傷事件〕
口之津で南有馬村庄屋の弟・角蔵と北有馬村百姓の三吉と、不思議の御影を拝んでいたところ、島原の代官に知れて捕まり、家族ともども処刑された。これに怒った農民らが代官林兵衛門を襲い討ち果たした(25日)。(又は、御影を拝んでいたところ代官がこれを引き裂いたので、この場で代官を討ち果たした。)
10.7
 このころの四郎の様子:『耶蘇天誅記』
宮津で四郎の推載式か。
ここで“四郎太夫時貞”と称したとあります。
 『耶蘇天誅記』より-四郎、首領へ推載される-
10.9
 このころの四郎の様子:
『耶蘇天誅記』
 上津浦の庄屋一郎兵衛宅で四郎がはじめて村人を集め公
 開説法を行ったといわれる。※1

『細川家記』
 四郎父が肥後の宇土から四郎を迎えに行った、四郎が小瘡
 をわずらっているということで四郎も父も帰ってこなかった。
 (母の供述)
※1『耶蘇天誅記』より -四郎初の公開説法-
10,10 四郎:大矢野村越浦の太郎助というものの所へ泊まっていた。
(小左衛門の供述より)
・有家村庄屋、甚右衛門宅で庄屋の公用会議=反抗の決意
口之津代官殺傷事件-経緯1-:発端
 『細川家記』(渡辺)小左衛門口上之覚

島原の日野江(口之津付近)で、古いすその破れた御影があったが、それに表具をしようと思っていたところ、10月10日ころにそのままにしてあったはずの御影が誰も手をつけていないのに自然に新しい表層が出来上がっていた。この不思議を聞きつけ、大勢の人が集まってそれを拝んだ。
 『細川家記』(渡辺)小左衛門口上之覚から
10.14 ・高来郡指導者ら湯島で天草指導者と談合
10,15
 加津佐村の寿庵名でキリシタン立ち返りの回文を流す
  
「天人天下りされ(キリスト再臨)、異教者らはデウスより審判が下るので直ちにキリシタンになるように、早々に村々の庄屋・乙名(おとな)は私の元へ集まるように。島じゅうにこれを廻し、異教者へもキリシタンになれば地獄へ落とされることを免れえるだろう。」
10.19 ・口之津で甚右衛門・治兵衛・長右衛門・甚吉ら4人の庄屋を中心にキリシタン数百人の集会が開かれる。
・島原・南部村々キリシタン立ち帰り
 このころの四郎の様子(関連)
南有馬村(庄屋の弟)角蔵と、北有馬村(百姓)三吉が、大矢野に渡り四郎の宗門に帰依、キリシタンに立ち返り洗礼を受け、バテレンに叙階されて帰る。そして、キリシタン立ち帰りをうながし、礼拝を行う。→島原・南部の村々でも立ち帰りがおこる。
※角蔵(ベアド)、三吉(ガスバル)
四郎はすでに、司祭のような儀式を行っていたようです。
10,22
口之津代官殺傷事件-経緯2-
 『細川家記』(渡辺)小左衛門口上之覚
北有馬で角蔵と三吉が不思議の御影以降、礼拝の集会を度々開きました。そしてこの日、やはり集会を開いていたところ役人に捕らえられこの二人と家族が処刑されてしまいます。
10,24 島原と天草の一揆勢ら談合島で出会う。
10,25
口之津代官殺傷事件-経緯3-〕
北有馬佐志木作左衛門宅でキリシタン集会に踏み込んだ代官、林兵左衛門がキリストの御影を引き裂いたことで、もはや堪忍袋が切れた群衆に打殺されてしまいます。
この事件が発端で蜂起に至ったと、『細川家記』で一揆首謀者の渡辺小左衛門が述べているところです。。

 佐志木作右衛門、山善左衛門が一揆蜂起(立ち起こり)の文を
 各村へ回す。
代官、林兵左衛門はデウスの御敵にて討ち果たした。これより大事なこと、村々代官はじめゼンチョ(異端者)らを一人残らず討ち取られよ。日本国中は最後の審判がきている。これらを村々へ廻すように。(村々の庄屋・乙名へと宛てている)
口之津代官殺傷事件-余波-〕
島原でキリシタンらが立ち上がり、村々の主だった者らが代官
を襲う。
・加津村、小浜村でも代官襲撃
・西は口之津村、加津佐村、小浜村、串山村、千々石村、
 東は有家村、堂崎村、布津村、深江村、木場村など
 松倉領内の農民らの多くが立ち上がった。
10,26
〔深江村の合戦→島原城戦〕
(島原)深江村で一揆勢交戦、島原一揆勢は島原城を攻撃
島原城戦では一揆軍の勢いがすごく、“むしょうに、ただ死を望んで攻めかかった”といい、“家老宗夫、同新兵衛の若党2人そのほか家中の侍に奉公するものの大方が地元高来軍”で、“一揆の一族、あるいは心を寄せるものの数百人が同夜、城内から欠落”したそうです。(戸田敏夫氏)
布津・堂崎・有家・有馬農民らが加勢し島原城下まで攻め入り、神社仏閣を焼き払う。一時藩は、岡本新兵衛と多賀主水を大将とし鎮圧し、一揆軍は後退するが、それをついて島原城下へ火を放つ。
四郎はこの一揆に加わったとも言われている。
『山田右衛門作口書』によると
一揆勢が島原城を取り囲んだころ、四郎の推載を決め、四郎の下に村々より一名の使者を立て、先年キリシタンを転んだことを後悔し、今度四郎をキリシタンの大将にしたいと申し出る。
四郎の動向
四郎は4・50名ほどを率いて(島原)大江まで来て相談をかわした。四郎は、12000名で長崎へ向かおうといったが、(富岡城代)三宅藤兵衛が島子まで押し寄せているとの急報を受け、1500名ほどで天草へ一旦戻った。
・島原城下に農民らが殺到する。
・(天草)天草でも一揆勢が寺を焼き始める。
10.27 ・町山口村の問屋三丸郎、キリシタン集会を開く
・松倉藩(領主留守を守る家老岡本新兵衛・多賀主水)が、江戸・佐賀・熊本・豊後目付けに一揆急報を打つ。「きりしたん宗門立ち上がり」としている。
10.28 ・町山口村の問屋三丸郎は、郡代九里六三衛門に殺される。
10.29 ・大矢野で一揆
 :大矢野一揆勢、栖本郡代へ押しかける。(天草一揆蜂起)
10,30
〔四郎の身内が捕えられる〕
細川領内の郡浦で、四郎の姉婿、渡辺小左衛門他6人と、やがて四郎の母と妹も捕らえられてしまいます。
その後、それを知った四郎は大いに怒り、一揆勢は救出を図ろうとしますが、夜襲に周到に備えた領主側の守備に近づけないと判断しこれは失敗に終わってしまいます。これにあたったのは領主側の河喜多九大夫で、かがり火をたくさん焚かせたといいます。また、四郎らは大矢野の策士で医師の相津玄祭に命じ、1000人ほどで宇土を襲うという計画も有りながら、事前にない通者によってその計画が漏れてしまったとも伝えられています。

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