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島原・天草一揆篭城戦の地 「原城」
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  一揆終焉320年記念碑
  ほねかみ地蔵
  原城ギャラリー<本丸編> 03/05/27
原城発掘
  原城発掘について 03/05/25
  原城発掘出土品(メダイ) 03/05/25
  原城発掘出土品(火縄銃の弾) 03/05/25
  原城発掘出土品(弾で出来た十字架) 03/05/25
  原城発掘出土品(大砲玉) 03/05/25
  原城発掘出土品(十字架) 03/05/25
  原城出土品(黄金の十字架) 03/05/25
  イベントレポート(2003.4.5) 03/04/05
  イベントレポート(2006.4.8-9) 06/05/21
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 ■ 原城について

【天草丸から本丸】

原城は、島原・天草一揆の最期の激戦の地。島原・天草の両領主による悪政によって苦しみぬいた両領民ら3万7千が、12万もの江戸幕府正規軍を相手に立て籠もって戦い、松平伊豆守の策によって3ヶ月近い篭城戦による干し殺しの後、ほぼ全員が虐殺された大事件となった舞台です。
原城の築城は、当初明応5年(1496年)に領主・有馬貴純によって築城とされていましたが、近年の発掘調査によってその後の有馬晴信氏が豊臣秀吉朝鮮出兵に影響を受けて帰国後に築城したものであろうということが判ってきたといいます。


その晴信が、慶長17年(1612年)の岡本大八事件に連座して遠く甲斐の大和村へ配流され死去、その後、子・直純が2年ほど統治しましたが、自ら願い出て転封、元和2年(1616年)大和五条より松倉重政が入封してきました。


松倉氏は、江戸幕府の一国一城令により島原城(森岳城)築城の際に日野江城と共にこの城を廃城。ところが発掘調査から、廃城となっていた原城は少しの手を加えれば城の機能が十分果たせる状態であったことが判明、1637年には島原・天草一揆勢がそれら城に手を加えて篭城戦を戦い抜いたのです。


戦いのすさまじさを物語る数多くの鉛・鉄の鉄砲玉、オランダ製大砲玉、一揆全滅後徹底的に城が破却された際のむごさを語るばらばらの遺骨の多く、ロザリオやメダイなど宗教遺物、また瓦や建造物遺構も見つかっています。


四郎についての直接的な遺物こそ出土していないものの、本丸虎口上部に四郎宅跡の場所も史料と合致した場所が判明するなど、また高価な黄金の十字架も複数見つかっています。
(昭和13年5月30日国史跡文化財指定)

この城は、別名「日暮城」とも呼ばれ、周囲は4キロ近くあり、三方が有明の海に面し、南東に穴出した岬を利用し、つくりは本丸・二の丸・三の丸。天草丸・出丸からなり、自然の要塞は一揆勢によって更に難攻不落の要塞に手を加えられていったといいます。海水が城の周囲に堀を作り、東側の岸壁は天守閣があったとされています。この城は、桜の美しい城でもあったといいます。


平成4年からはじまった発掘調査も現在進行中で、未だに数々の遺品や遺骨が出土しているといいます。抹殺された歴史を語る重要な発見、そして今後更に研究が進んでいくことでしょう。
【原城の桜】
【城内石垣張り出し口】
※1  徳川家康の禁制1  岡本大八事件




 ■ 一揆終焉320年記念碑 (昭和32年5月25日付) 
この石碑は、一揆終焉後320年記念碑として、当時の長崎県知事であった西岡竹次郎氏が建立した石碑です。この碑文には幕府のキリスト教徒弾圧と、松倉2代にわたる悪政により生活を脅かされた有馬の信徒たちが、天草四郎時貞を盟主として幕府軍と戦ったことが記されています。
【原城石碑】
「何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ幕府軍の精鋭と盾を交えること数ヶ月、強大な武力と権勢に立ち向かった。その団結と情熱信仰の強さ、遂に非憤の最後を遂げたとはいえ、この戦乱は当時の国政の上に痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを内外に喧伝した。」

という文には、胸打たれるものがあります。


そして「信仰に生き抜いた殉難者のみたまに対し限りない敬意と哀悼の念を禁じ得ない。」とあり、最後に「信徒、幕府両軍の戦死者のみたまを慰め、遺跡を顕彰する次第である。」と記されていました。


キリシタン迫害が、時代の流れの中で海外からの侵略を強く懸念した結果であったこと、しかしながら、純粋に平和を望み心正しく生きようと願った人々が、キリシタンゆえに迫害され責め苦にあい、おびただしい死を持って弾圧された歴史を知り、同じ命ある人間をここまで追い込んだ歴史への反省と、これからの時を生きる私達も、人一人の命の尊さを考えなければならない事を痛感します。


 ■ ほねかみ地蔵 
城内にあるこのお地蔵様。一揆後150年ほどの間、この地は幕府から禁断の地とされていたのでしょうか、敵味方両者の遺体はそのまま放置され続けたといいます。惨殺された一揆勢の首はことごとく切り取られ、残った首なしの遺体が累々と横たわる光景は想像を絶するものがありますね。幕府軍はこれらを一箇所に集めて焼却、あるいは城の破却時に土の中へ投げ入れる、また海へ投げ落としたりしたようですが、そのおびただしい数から完全に葬り去られることはなかったといいます。
【原城内のほねかみ地蔵】
そのまま放置された遺体は、野ざらしにされました。それはこの戦いが、キリシタン信徒の多くの死者を出していることから、密かに信仰を続ける者たちの聖地と成りかねないと考えられたのかもしれません。そういう意味でもこの地に近づくことすら出来ず、ましてや幕府の目を盗んで法度のキリシタンを供養するなどということは、当時とても出来なかったようです。
一揆の10年後には、代官鈴木重成氏が天草富岡と島原有馬に首塚の慰霊碑を建てた後は、全く供養されることもなかったといいます。

明和3年(1766年)7月15日、有馬村の願心寺の注誉上人が敵味方区別することなく、これらの遺骨を拾いその霊を慰めたという地蔵尊塔です。
この変わった名前「ほねかみ」とは“骨をかみ締める”という意味だそうで相手の痛みを噛み締め、地蔵横にあった看板によれば“自分自身のものにする”と説明を加えていました。また、司馬遼太郎氏はこれを、“骨”“髪”だろうとし、想像してみれば、風化していく遺体の骨と髪の毛が残っていた・・・そんな情景が思い浮かんできます。


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