≪心理面からの一考察

 松倉重政のキリシタンに対する変容 松倉家の変容ぶり
蜂起の序章 〜雲仙責め〜
相手がキリシタンゆえの虐政
 追い詰められたキリシタン農民の苦悩 棄教者の心の葛藤
小西遺臣の浪人たちの策動と、宗門組織と結びついた惣百姓組織長
キリシタン蜂起と教理との距離
  松倉重政のキリシタンに対する変容 
■ 松倉家の変容ぶり


苛斂誅求を行った島原領主松倉家は、もともと幕府に忠義を尽くす大名だったといわれています。この一揆の大きな原因となった松倉家二代による苛斂誅求が一揆蜂起の根底にあったことは言うまでもありません。重政時代においては見栄を張った島原城建造、勝家時代には江戸城建造などにも過分な公儀普請役を自ら申し入れ、それらは農民の生活に重くのしかかり、幕藩下における厳しい検地によるかさ上げの石高も農民を大いに苦しめました。そしてこの地は元来、キリシタン大名有馬氏一門の領土であったことから、度重なるキリシタン迫害の歴史がありつつ根強いキリシタン信仰の地であった、このことが江戸時代のキリシタン禁制下にあって松倉氏の苛政に多大な影響を及ぼしました。

有馬時代というのは、当時はまだ地方統治の世で、領主と土地の民衆は密接な関係を持っていました。ところが江戸時代、幕藩体制の世になって新しい領主が転封してきたことでその関係が一変していきます。松倉氏の残虐ぶりは、氏自身の性格的なものによったのでしょうか。そう考えると、実はどうもはじめから鬼のような領主というわけではなかったようなのです。


松倉重政が入部してきた1614年から数年間、この地方には宣教師らが何人も潜伏していました。千々石のジャンノネ神父、口之津・加津佐の中浦ジュリアン神父、他にもナバロ神父、コウロス神父、島原城下にもゾラ神父が存在していたとされています。宣教師らはほぼキリシタンであった彼ら農民達をよく指導していて、農民達もそれに従い日々の仕事に尽くしていたといいます。農民達は税が払えないと、宣教師らから時に援助を受けていたといわれています。そんな姿を当時の重政は承知していたといいます。ところが江戸時代というのは参勤交代があり、当主はたびたび江戸へ上らなければなりませんでした。その重政不在中を預かっていた家老の多賀主水は、税の取立てには情け容赦がなかったのです。キリシタン禁制下、この地も多分にもれずついに1622年、ナバロ神父が島原で殉教を遂げます。当初はナバロ神父を捕らえ置いていた重政でしたが、時には神父を牢から出し、城へ寄せては話を交わし、彼らへの礼節を持った態度が伝えられているのです。重政は幕府に、ナバロ神父の命乞いを願い出たとも言われていますが、結局は江戸から火炙りの命が下されてしまいます。それから二年後、1624年のことでした。重政が参勤交代で江戸で奉公中、多賀主水らが口之津でパチェコ神父とイルマンらを、またゾラ神父もついには捕らえるのです。この知らせは江戸の重政にも届くのですが、この頃から彼のキリシタンへの態度が徐々に変わっていったのです。一年間江戸へ留め置かれていた間、キリシタンへの態度の甘さを家光に戒められ、江戸から戻った後の重政は一変、冷酷な松倉になってゆきます。これも幕府への忠義の厚さの表れなのかもしれません。1627年(寛永4年)の『宗門史』※には家光から更にキリシタン取締りの手ぬるさを叱責されて、自分の命と領土を守るためにキリシタン絶滅を約束したことが記されていました。
そして、あの世界にも知らしめられた残虐な雲仙責めが行われるのです。(※煎本増夫氏引用より)



蜂起の序章 〜雲仙責め〜

雲仙責めの為に
捕らえられたのは口之津宿主の荒木、乙名の峰、島原の内膳・内堀、深江では庄屋の馬場、八良尾は鬼塚、有家の林田など、全ては島原南半の村々のリーダー達でした。彼らは領民達の前で想像を絶する残虐な方法で責め殺されるのです。表面的にはこれら恐怖政治の過酷さから転んでいた(棄教)していた者は多く存在していましたが、長い信仰の歴史あるこれらの地の領民の心はが、心底一変するものではなかったでしょう。見せしめに殺された村々のリーダー達は同時に、迫害で宣教師が存在しなくなっていたこの地で信仰に当たっての指導をしていたのです。このような姿は、当時のカトリック界では日本をおいて他にはないことでした。司祭職にないものが霊的・信仰的指導をするということは有り得なかったのですが、このように厳しい迫害の地だったからこそ容認され、また自然的なものであったといえるでしょう。これらリーダー達や宣教師達の指導があったからこそ、領民達は厳しい苛政にも耐えてきたのです。ところがそのよりどころのリーダー達が殺されたのです。彼らはもはや頼るものを失い、心のよりどころを失い、訴えるすべすら失ってゆきました。この地の最後の宣教師ジャンノネ神父も1633年には遂に殉教、島原・天草のキリシタン弾圧最後の記録はこの1633年(寛永10年)8月27日でした。




相手がキリシタンゆえの虐政


相手がキリシタンなのだから、何をしようと構わないという心理が働いたことはゆうに想像がつきます。農民であった領民は、同時にキリシタン故の暴虐を加えられていたのです。それでも彼らは指導者の下、耐えていたのです。彼らだから耐えたといってもいいのではないでしょうか。ところが彼らはリーダーを失うばかりか、更に過酷な状況へ追いやられていきます。


子の勝家も父の方法をそのまま受け継いで、過分な江戸城普請を申し出たり、かつてない大飢饉という自然の猛威による経済逼迫で、囲炉裏銭・窓銭・棚銭・戸口銭・穴銭・頭銭(鍋島藩史料より)を掛けるなど過酷な収縛に至ります。税が納められなければ残虐な刑を科せられ、生きて地獄のありさまだったのです。道には“つかえ死(餓死)“者があふれ、異常気象はこの世の終末を想像させ、彼らは残った命の小さな炎を、浪人達の誘導にのって一気に暴発させていくのです。

もう一つ付け加えておくと、松倉重政がルソン征伐の計画を立てた理由に、キリシタン根絶の意図があったということです。枝葉である国内の宣教師や信者を殺しても、彼らは海を渡って次から次へとやってくる。それら日本へ多くの宣教師を派遣し続けてるルソンを征伐してしまえ、というものでした。が、これは重政死去とともに成し得る事はありませんでした。


指導者が、次々と血祭りに上げられていった彼らはもはや、生きるすべを失っていったことが想像されます。では一揆直前に至っては、彼らはどのような状態に追いこまれていたのでしょうか。




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