相手がキリシタンなのだから、何をしようと構わないという心理が働いたことはゆうに想像がつきます。農民であった領民は、同時にキリシタン故の暴虐を加えられていたのです。それでも彼らは指導者の下、耐えていたのです。彼らだから耐えたといってもいいのではないでしょうか。ところが彼らはリーダーを失うばかりか、更に過酷な状況へ追いやられていきます。
子の勝家も父の方法をそのまま受け継いで、過分な江戸城普請を申し出たり、かつてない大飢饉という自然の猛威による経済逼迫で、囲炉裏銭・窓銭・棚銭・戸口銭・穴銭・頭銭(鍋島藩史料より)を掛けるなど過酷な収縛に至ります。税が納められなければ残虐な刑を科せられ、生きて地獄のありさまだったのです。道には“つかえ死(餓死)“者があふれ、異常気象はこの世の終末を想像させ、彼らは残った命の小さな炎を、浪人達の誘導にのって一気に暴発させていくのです。
もう一つ付け加えておくと、松倉重政がルソン征伐の計画を立てた理由に、キリシタン根絶の意図があったということです。枝葉である国内の宣教師や信者を殺しても、彼らは海を渡って次から次へとやってくる。それら日本へ多くの宣教師を派遣し続けてるルソンを征伐してしまえ、というものでした。が、これは重政死去とともに成し得る事はありませんでした。
指導者が、次々と血祭りに上げられていった彼らはもはや、生きるすべを失っていったことが想像されます。では一揆直前に至っては、彼らはどのような状態に追いこまれていたのでしょうか。
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