家康側近の旗本であった長谷川権六は1614年(慶長19年)長崎奉行として着任、宣教師大追放後は残留宣教師や信徒の会合、聖画所持など一切を禁止する。ミゼリコルディア天主堂(1620年)や長崎の教会所属7病院破却。時の将軍徳川秀忠よりキリシタン弾圧を奨励され、キリシタン平山常陳(平山氏は船長)事件で知られる密入国者ズニカ、フローレンス神父と10人の船員を火刑にしたのを期に、翌年8月には長崎で大規模な弾圧を行いカルロ・スピノラ神父を含む55名(51名)を西坂で火刑した元和の大殉教があった。徳川秀忠と家光の指示で多くのキリシタンを処刑したが、宣教師を捕らえたり処刑するなど、当初はできるだけ避けようとしていたともいわれる。〜1625年まで |