[いたくらないぜんのしょうしげまさ] |
一揆当時、50〜51歳。(1588年〜1638年)名奉行京都所代勝重の子。三河深溝藩主で1万5000千石を領す大名。寛永14年一揆鎮圧第一次上使として12月8日に有馬に至り、翌1月1日の第一回総攻撃で討死。墓所は駒込横手町(新宿区)から移転し、上高田の宝泉寺にある。(※右、原城内にも墓碑あり) |
【原城内の墓碑】 |
大坂冬の陣で家康の使者となり大坂城入りし功労者とし、この大役に抜擢。寛永元年(1624)、三河国(愛知)額田他、父の遺領1万1850石を継ぐ小身の重昌に、一揆鎮圧に当たって“上使”(幕府軍全軍を指令統括する役)という大役を負わせたという事は、たかが百姓一揆という一揆に対する当初の幕府側の見解の甘さを露呈したものともいえる。
病を押して、子重矩(しげのり・16歳)を伴って寛永14年11月8日九州へ下向し、12月9日に有馬へ着任。翌日から激しい攻撃を開始したが一揆の抵抗が強く、第二次総攻撃でも4万の大群をもってしても効果を得なかった。11月24日には江戸で新たに第2次征討使として松平信綱が任命されたことで、責任を痛感した重昌は翌1月元旦に再総攻撃を開始。自ら陣頭に立ち攻撃をかるが、一揆側の的となり討死。原城での戦死に対しては、幕府の態度や当時の世間の見方は冷たいものだったが、後々同情を生んだとも言える。重昌が上使に決定した頃は、このような重大事件に発展するなどと江戸幕府でも想像だにできなかった様子がうかがい知ることが出来きる。
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寛永15年1月1日 |
原城戦において戦死。(死に様が、上使ともあるものが直接前線へ進軍し、その様子がいのししのようだということで、“いのしし武士”と死後はののしられる結果となった。現在、墓碑が原城内に建立。 |
辞世の句 「去年のあらたまにハえほしの緒をしめ、 けふは又かふと乃緒をしむる、うつりかハる世のならひ、 今更のやうにおほえつる、山之陣に赴けるか あらたまの年にまかせて咲花乃名のミ残さハさきかけとしれ」 すでに死を覚悟しての出陣だったようだ。 |
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【参考】京都所司代板倉勝重の第三子で三河(愛知県)の深溝城主、若くして徳川家康の近習となり、使者を果たした方広寺の事件が発端となって豊臣氏滅亡が加速したとも言われている。「内膳正」とは食事の世話をする長官の官職名。 |
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※辞世の句は寺沢光世氏・鶴田倉造氏『寺沢藩による天草一揆書上』で紹介された水野恭一郎氏の『備中庭瀬藩板倉家伝来の古文書覚』による。 |