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【ま】 松倉豊後守重政
松倉長門守勝家(子)
松平伊豆守信綱
【み】 ・三宅藤兵衛重利
水野河内守守信
水野日向守勝成
【も】 ・森宗意
 少しずつ作成していきます。当サイト内で登場する人物について
 参考程度にどうぞ。



 松倉豊後守重政 <松倉(島原領)藩主>
[まつくらぶんごのかみしげまさ]
(1573年〜1630年/天正元年〜寛永七年)
先祖は越中富山、関が原の戦いで功績を挙げ奈良五条城一万石。有馬の13代城主有馬直純が1614年(慶長19年)に日向延岡に加移封となった後、島原領へ入り4万石領主となる。幕府2代将軍秀忠による一国一城の令により城地を島原へ移し、1624年(寛永元年)島原城完工。3代将軍家光の厳しい命を受け徹底したキリシタン弾圧を施行、見せしめ・棄教のための拷問・処刑などはその残虐性が史上に刻まれている(焼印・雲仙責め・蓑踊りなど)。幕藩体制の基盤を固めるためにキリシタン弾圧が激化する中、1630年にはカトリックの指令地フィリピン・マニラ攻略計画を長崎奉行竹中に報告、その帰路、伴天連との密約ありとの嫌疑がかかり小浜温泉で暗殺されたという説が残っている。一方、自ら小浜温泉のたぎる硫黄泉を家臣に浴びせさせて狂死したという説も。松倉氏による究めて過酷な経済収奪による恐怖政治はキリシタンを棄教させる責め苦がそのまま施行された。島原領松倉家はこの後も子の勝家によりそのまま受け継がれ苛斂誅求が続いてを苦しめ、天草・島原一揆勃発に至った。


 松倉長門守勝家 <松倉(島原領)藩主>
(慶長2年生まれ)一揆当時42歳。寛永8年、父重政の跡を継ぎ肥前島原4万石を領す。親子2代にわたる苛斂誅求が起因となり一揆という大事件を未然に防げなかった責任を問われ寛永15年4月改易となる。
※松倉豊後守重政(父)欄参照のこと。


 松平伊豆守信綱 −老中・一揆討伐上使−
[まつだいらいずのかみのぶつな]
一揆当時は43歳、武蔵忍2万6千石を領する大名。一揆鎮圧のため第二次上使として寛永14年12月3日に戸田氏銕(大垣藩)とともに島原へ派遣江戸を出立。翌年1月2日に寺井に至る。「知恵の伊豆守」として手腕を発揮した。死を恐れない一揆勢を前に力の攻防戦では幕府軍の被害も増幅するいっぽいであることから干し殺し戦を決定し、一揆勢を苦しめた。しかしながら四郎親族の降伏勧告戦では事のほか一揆勢の精神的結束が固く、またオランダ船からの大砲砲撃では一揆軍への多大な損害で功を奏しながらも、民衆鎮圧に諸外国の手を借りたこの方法を内外から問われて中止する一幕も。寛永15年2月28日の総勢12万もの幕府軍の指揮を取り、総攻撃によって家光の命を受けて一揆勢3万7千人老若男女をことごとく殺戮しつくし、その首をさらした。一揆終焉の後、寛永15年5月13に江戸の徳川家光への報告を果たし、16年には功績を認められ3万石を加増(計6万石のち7万5千石)されて武蔵川越へ移る。寛文元年没、武蔵岩槻の平村寺に葬られる。
【参考】慶長元年(1596)に、代官の大河内金兵衛久綱の子として生まれた。家光の誕生後は家人として家光の側近くで小姓を務め信頼も厚かった。寛永10年(1633年)老中となり、1635年には武蔵国忍に2万6千石を与えらる。その後、4代家綱にも仕え、慶安事件、江戸大火(1657年)、大老堀田正信弾劾事件(1660年)などを処理して幕府に貢献した
【よもやま話】〜知恵の伊豆守〜
 「三つ扇」の話
徳川家光(3代)が庭園にかける橋のそり具合を家臣に相談した時のこと。伊豆守は、扇子を取り出して端からひとずつ折をたたみながら、家光の好みを伺ったとされている。扇子を空間的模型に使った知恵を気に入られ、500石を加増されたといわれている。これを期に伊豆守は出生街道を進み、家紋を“三ッ扇”としたのだそうだ。
 「白壁」の話
徳川家綱(4代)が屋敷の壁を一夜のうちに白壁にしてみよ命じ、家臣らは思案したが名案が浮かばなかった。これを聞いた信綱は、良質の白い紙を張り巡らしたちどころに白壁にしたといわれている。


 水野河内守守信(半左衛門)  −長崎奉行−
慶長五年会津攻参戦し3500石を領し、元和3年(1626年)使番長崎奉行 従五位下河内守着任。将軍からキリシタン根絶の厳命を受け苛烈な弾圧を行った。残留管区長以下の神父・修道士を火刑にしたのを皮切りに、信徒発見のため踏み絵制度を開始したといわれる。又、密告を奨励して嘱託銀という賞金を設けて摘発に力をいれ、棄教のための拷問も施行された。
元和5年大坂町奉行、寛永6年堺奉行兼任、寛永9年大目付、寛永11年千五百石加増となる。寛永13年没。
【参考1】「平戸オランダ商館日記」商館長クーンラート・クラーメルの寛永7年の日記に“奉行の大部分は非常な暴君で、キリスト教の迫害者である”としているが、外山幹夫氏はこれを「この河内守もまたこれを充分裏付ける人物であった。」としている。
【参考2】踏み絵開始については諸説あるが、ほぼ寛永5年に紙製の物が試行され、板版を経て青銅製の物になるのは寛文9年(1669年)で古川町裕佐という鋳物師が造ったものといわれる。


 水野日向守勝成 −一揆時幕府軍参戦−
[みずのひゅうがのかみかつなり]
(慶長5年〜慶安4年)一揆当時は75歳。天草島原一揆鎮圧に幕府軍として参加。
大坂の陣参戦では大坂城一番乗りを果たし、元和元年大和郡山城6万石、元和5年備後福山城10万石、寛永三年相模千石加増、寛永9年加藤忠広改易時に熊本請取上使となる。天草島原一揆鎮圧に参加。慶安4年没、福山の賢忠寺に葬られる。
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