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四郎インデックスへ (更新05.08.14) |
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時は徳川幕藩体制が整いつつある三代家光の時代。秀吉時代からにわかにポルトガル・オランダといった当時の日本より遥かに文化・芸術・学問、そして何より軍事にすぐれていた諸外国を脅威に感じながら、布教という形で日本に深く浸透し始めたイエズス会の組織だった活動下にあったキリシタンに対する一神教の信念が強く懸念され、一方で植民地化政策による世界的征服の脅威を感じとった日本の首脳陣らによる徹底的なキリシタンへの迫害が続いた。加えて士農工商による徹底した身分制度確立に根ざした封建政治をして、堅固な幕府を築こうとした徳川幕府は、“天地同根万物一体”と矢文に見られるキリスト教思想に強い懸念を示していたのも事実であり、弱き民から子供に至るまでその恐るべき精神力に驚愕し、徳川の威光を日本国内隅々まで照らす障壁と捕らえていたといえる。
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撮影:ともともさん
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キリシタンの地として全盛を誇った天草・島原の地には想像を絶する迫害の歴史がある。加えて過酷な財政かにおかれた諸大名、特にこの地の領主による苛斂誅求によって、キリシタン迫害の延長線上に棄教後も尚、人として生きることを全く無視されたこの地の人々は、飢饉下における“生きて地獄”のありさまに、最後の力を振り絞って集結した。多くの農民たちと、大坂の陣や徳川時代における容赦ない大名改易による大量の牢人を排出した背景から、生きる糧として再士官の道すら閉ざされつつあった反徳川の牢人たちとが結びつき、37000人もの一揆勢らが戦いぬいた結果、島原の原城篭城の末、非業の全滅をきした大一揆。その総大将に推載され、農民達へ恐るべき結束力と精神力を持たせたのは、天草の救世主として生きぬいた名もなきキリシタン少年・益田四郎、それが“天草四郎時貞”だった。
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伝承される「天草四郎時貞」の姿とは・・・・ |
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撮影:ともともさん |
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